- 第8回
- 現代社会と脳
- 養老 孟司 (北里大学教授、元東京大学医学部教授)
都市には人の意識がつくりだしたもの以外は置いてはいけないという暗黙の了解がある。 私は人が意識して作らなかったものを自然と定義している。自然としての体、その中にある脳が意識的に様々なものを作り出す。意識の典型は言葉、都会の人は言葉が巧み。言葉で世界が埋めつくされている。
心は脳の働きで体は自然。「心身ともに健康」というが、これは社会も同様。心に相当するものが社会、体に相当するものが自然。こう考えると社会の最終的なあり方は心身ともに健康であること、両者のバランスが大切。
世界の歴史をみると、都市化の過程でイデオロギーを供給するのは宗教だが、日本は儒教というイデオロギーを戦後、意識的に消し、それに代わる宗教が入らず宙ぶらりん。結果的に日本の都市にイデオロギーはない。
日本の伝統的生き方にもイデオロギーはなかったが、丈夫な自然があった。台風がきて、地震がきて、冷害もある。この自然と我々は長い間付き合いながら自然宗教をもっていた。これは外国に行くと随分ちがう。ヨーロッパでは根本的に意識的に行動しないと気に入らない。我々はそうではない。日本は曖昧。自然に対処するときには曖昧でいるしかない、それでよい、読めないのだから。自然に寄り添いながら自然を曲げていく行為を伝統的に「手入れ」と呼ぶ。このような手入れが我々の日常生活のかなりの部分を占めている。これは女性に聞くとよく分かる。放っておくと自然のままになるので、毎日毎日いじっている。どこで収まるかはやってみなければわからない。この感覚は子育ても同じ。この感覚は日本人に独特といえる。
私は都市にイデオロギーはなくてよいと考えている。イデオロギーなしの都市文明は新しい。社会構造はそう簡単ではなく、何が無駄なのかわからない。イデオロギーがいらない裏には人間が根本的に、本当の意味で自分に必要なものは何かということを一人一人がきちんと考える必要がある。これがなければいつも外ばかりみて自分の足元がぐらぐらしてしまう。その際には価値観をどこに置くかが大切。問題なのは都市の論理、即ちサラリーマンの常識=日本の常識、これを世界と思ってしまうこと。これらに捉われない見方をしないと何も変わらない。これからは人口の7割のサラリーマンの常識にはまらない人、つまり女性と老人の感覚を大切に社会修正しないと都市化が行き過ぎてしまうだろう。