登壇者:
河本 英夫(東洋大学 教授)
平尾 剛(元ラグビー日本代表、神戸親和女子大学 准教授)
コーディネーター:
加藤 秀樹(構想日本代表)
【議事概要】
「オリンピックはスポーツをダメにする?!」
今回のゲストのお一人、平尾剛さんがスポーツを愛する者だからこそと「反東京五輪宣言」を発表されました。
これは、2020年東京オリンピックの開催方法などについての批判にとどまらず、近年のオリンピックのあり方がスポーツの可能性を摘んでいるのではないかという、深い視点を含む問いかけです。日本の各地でスポーツが大きい事業になっているからこそ、また、オリンピックを2年後に控えるからこそ、じっくり考えたい。
オリンピックを成果のあるものにするには、ただ拍手をしていればよいものではないでしょう
すべての日本人が向き合うべきテーマだと思います。
第243回J.I.フォーラム「オリンピックはスポーツをダメにする?!」では、東洋大学教授の河本英夫氏、元ラグビー日本代表で、神戸親和女子大学准教授の平尾剛氏のお二人をゲストに迎えました。
加藤
「平尾さんが反オリンピックというメッセージを出されているのを目にした。最初の方は商業主義の問題などを挙げていたが、そもそもオリンピックというものがスポーツに枠をはめているのではないのかという話になっていた。その中でスポーツのアート性というものに言及されており、これは大変本質的なテーマだと思った。」
「一方、河本さんは東洋大学で哲学を教えておられるが認知行動療法に携わっておられ、身体性の重要性にかねて言及しておられる。」
「まずは平尾さんから反五輪も含めて、スポーツに対する問題意識を述べていただき、それに対する河本さんのご意見をお伺いしたい。」
平尾氏「スポーツのアート性がなくなってきた」
平尾氏
「去年の11月の終わりに、積水ハウスがやっている住ムフムラボというサイトで反オリンピック宣言というコラムを乗せた。その中で、商業主義の問題や、オリンピックの肥大化などについて述べた。」
「ノルウェーの現役スノーボード選手(テリエ・ハーコンセン)が、オリンピック至上主義によって自発的創造性が失われる、スノーボードの自由な精神に反するとして出場を辞退した。彼の姿勢に背中を押されて自分の意思表明をしようと思ったのが、そのきっかけである。」
「スポーツからアート性が失われつつある。スポーツは関わる人の創造性の積み重ねが結果的に勝利に繋がる。記憶に残っているのは勝ったか負けたかよりもうまくパスが回せたなどその瞬間の場面ばかり。神戸製鋼時代の優勝した瞬間は高揚感よりも安堵感が強かった。過当な競争が強いられる勝利至上主義は選手を疲弊させる。」
「厳しい競争の中でスポーツのアート性が失われている。子供のころから練習を重ね、どんどんうまくなっていく。そのプロセスに自発的創造性が育ち、それを積み重ねた結果が勝利ではないのか。そういう経験を積み重ねていくことで、競技力が上がっていき、だんだん競技スポーツになっていくのが、正しいスポーツの在り方ではないのか。勝つこと、記録、メダルを目標にすると、スポーツ活動のプロセスから得られるはずの多くが失われる。」
「スポーツのアート性をなくさず、プレイし続けられる選手が、結果的にトップアスリートになっていくのだと思う。私がここで話したいのは、スポーツのアート性に焦点を当てることで、スポーツの本質を共有していきたいということ。」
加藤
「河本さんは、人間は視覚に大きく依存しているが、むしろ触覚がすべての感覚のベースであると述べられている。その内容はさっき平尾さんが話されたこととの接点がありそうだなと感じている。」
河本氏「記憶に残るような場面を作ることの積み重ねが、結果として勝つことや記録が伸びることに繋がる。」
河本氏
「自分がスポーツをやって、自分の能力が伸びたということをどこで感じられたかということは重要。その能力を伸ばすということを表すには、通常の学習という概念は狭い。それまでできなかった体の動かし方ができる。それは通常の学習のように、理解してできるようになるということとは違い、うまく定式化できない。」
「哲学は何の役に立つのか。いろんなことを学び、そのうえで、それらを一旦捨てるということが重要。その中に非常に大きな学びがある。」
「スキーのジャンプは飛び立つとき時速90kmくらいになる。ほんの少しでもタイミングがずれると距離は出ない。意識面だけでは何とも修正できない。そんな時、八木弘和コーチは『100mの10㎝先を見ろ』と。実際に見られるわけじゃないが体の重心や姿勢云々ではなく、違う『変数』を使うことで選手をリードしている。」
「ゴルフの青木功さんがスランプになった他のトッププロにアドバイスをする場面があった。その時に、青木さんはそのプロのスイングを見、前足の親指の後ろに少し力を入れろといった。本人も何が悪いか分かって、いろいろ考えている。それを別の変数を設定することで体の動きを変え、スイングを修正した。」
「日本のプロスポーツではフォームを修正させることが多く、修正を重ねた結果その個人が持っている本来の力を出せずに引退になったりする。百人百様の身体とその能力を型にはめて結果を出そうという指導法。アメリカ大リーグではいびつなフォームで投げたり打ったりする選手が多いがその人が最も力の出せるスタイルにする指導法によるもの。」
「欠点を治すということが、能力を抑え込むということにつながってしまう。重要なことは選択肢を増やしていって、どこを変数とするか。」
「日本人で100メートル10秒を切った東洋大の桐生君は大学3年になっても、何度やっても1年の時の記録が抜けず、9秒台を出せずにいた。だがある時、局面が変わった。記録には残っていないが、追い風参考記録で、100メートルを9秒台で走るということがあった。それで身体的な感覚で9秒台の走りを覚えた。」
「結果を設定して、それに向かって進む。それは大事だが、勝つことや記録のための方法論で結果に向かってはいけない。勝つための戦略になると選択肢が大きく狭まる。記憶に残るような場面を作ることの積み重ねが結果として勝つことや記録が伸びることに繋がる。オリンピックで金メダルを取ればメディアがもてはやして、テレビに露出しその後選挙に出たりする人もいるように、能力とは違うことが求められてしまう。」
加藤
「場面という言葉や感触という言葉がよく出てきた。感触という言葉は政治家もよく使うが、その感触とは一体何なのか。」
平尾氏
「感触、体感という経験を、言葉で表すのは難しい。なぜだかわからないが、場面が頭にこびりついている。だが、それをきっかけに、いろいろできるようになってきたという感触があり、僕の中ではあれがラグビー人生の中で大事だったということは間違いない。」
「身体実感というのは言葉にしづらいがゆえに残されていない。指導者というのは、それを体感させるために、いろいろ手を尽くさなければならない。体感自体は直接言葉にできないが、それを大事にすること、直接的に言葉にならないことを自覚しつつそれについて話すようにすることが大事だと感じている。」
河本氏
「本人が感じ取れる感触を言語や認識で表そうとしても違うように捉えられてしまう。それをうまく伝えなければ能力の形成に繋がらない。あの人のフォームはきれいだと思って真似をしても同じようにはならない。モデルにしている選手が経験した基本的な何かを体験しないと真似ても自分のものにならない。」
「言葉が経験の妨げになっていることが多い。言葉でわかったと思うとそこで終わってしまう。しかし、実際やってみるとわかったこととは違う。」
「説明ではなく、本人の今の局面を変えるような一言が必要。経験が立ち上がってくるところに、一緒に立ち上がってくる言葉。一番近いのが詩。言葉が出現するところまで行けること。詩的な才能が必要。体験的な内実と、理解や言語のギャップに留意し、言葉の使い方などで、経験の在り方に変化を加えていく必要がある。そんな指導者が日本にも出てこなければならないと思っている。」
「解答がないから考えるのを止めるのではなく解答がない問いを考えることは、そこから前に進むことになる。」
「どのような人間でも過去に素晴らしい体験をしている。過去に生きてしまう可能性を誰もが秘めている。しかしそれでは前に進めないことになる。それはどこかで封印しなければならない。」
平尾氏
「引退直後はウェールズでのワールドカップでプレイしたような、スリリングで刺激的な身体実感を忘れられず、日常生活に物足りなさを感じる日々が続いた。試合だといいプレーと悪いプレーが一目瞭然で、それに対する反応が明確に感じられるが、日常生活ではほとんどこうした反応は得られない。自分の言動が合っているのか正しいのかが不明瞭で、穏やかな日常にどこか物足りなさを感じていた。時間がたち、冷静に振り返るようになった時に自分に残っているのは、勝ち負けではなく場面だった。今はようやくそれらを過去の一部だと解釈できて、ラグビーに線を引き始められていると思っている。」
「最初は初心者の子どもたちに教えることができなかった。コツを教えるために言葉を紡いでも、擬音語しか出てこない。ステップなど自分の得意なラグビースタイルを言語化しようとしたが、すると今度は自分の体が動かなくなる。その時に詩を読むようにした。詩の表現を参考にしながら自分のプレースタイルを言語化できるようになってきた。」
「スポーツにつきものの昔からのいわゆる根性論がいいとは思わないが、言葉では肝腎なことが伝わらない。だから100回やってみろ、的な根性論に流れてしまう。技を伝承していく言語は今後もっとふくよかにしていかなければならない。」
加藤
「昔の根性論の意味の中にはもう一つあって、とことん体や頭を使い続けるプロセスの中から体得できるということも含まれていたのではないか。」
河本氏
「自分のための自分のレースをやる。勝つためにレースをやるわけではない。そこをうまく考えると自分の選択肢が増える。」
「同じ規則で同じ競技をしていても、それぞれの個性、能力をうまくいかして対応していくことができる。モデル設定ということをやめるべきではないかと思う。」
加藤 「それでは質問、感想等ある方はお願いします。」
質問者①
「私は幼稚園の園長だったのだが、運動会でかけっこをしたとき、全員が一等賞ということで、順位をつけなかった。そういうことをやることがスポーツをだめにしたのではないかと思っているのだが。」
平尾氏
「勝敗を決するのは避けられないが、あくまでもプロセスの結果として勝敗がある、ということにしたほうが、より経験がふくよかになる。周りにいる大人が、負けのくやしさを転嫁してあげたり、勝った子供が驕ることを窘めてあげたりすることが大事ではないか。」
質問者②
「私は幼稚園を経営している。スポーツのすそ野を広げる活動について、どう考えているのか知りたい。」
平尾氏
「勝敗でなく、場面や体験の言語化に取り組むことが不可欠だと考えている。表現については、あまりロジカルになりすぎない感じで、文学的な表現を大切にする。僕としては書き手としてその厚みを出していきたい。イチロー選手の発言のような、強烈な身体実感に基づいた言葉を発信していきたい。そして指導者の育成にも関わっていきたいと思っている。」
加藤
「言葉はコミュニケーションの道具。言葉を発する側と受け取る側の中に一定の共有化した前提が必要。言葉だけですべてを伝えることは無理ではないか。法律も同じで法律だけですべての課題が解決はできない。1000個の問題を法律で解決したら1001個目が出てくる。言葉ではない変数が必要になるのではないか。」
質問者③
「平尾さんが反東京五輪宣言のコラムを出されたときにためらいなどはなかったのか。また反響はどのようなものがあったのか。」
平尾氏
「当然のことながらこれまでスポーツの世界で生きてきたものとして、大きなためらいがあった。だが、こうやってスポーツが肥大化していく中で、スポーツに距離を置く方たちの中でスポーツがどうみられるのかということを思い、コラムを書いた。SNSではおおむね賛同を得ているが、実際にこうやって直接賛同を得たのは、加藤さんのメールが初めてだった。」
質問者④
「なぜスポーツをするのか。お二方に感覚知を言葉にできる方としてお尋ねしたい。」
平尾氏
「人は動くということを本能的に欲求していると思う。日常とは違う刺激を味わうことによって何かしらの快感を得ようとしているのではないか。子どもがわざと水たまりに入ったり木に登ったりすることも同じだと感じる。」
「だが、どこかで動くことが嫌になる。それは体育教育のあり方、周りと比較されること、今のスポーツのあり方、苦行になってしまう練習など、様々な要因がある。だが本来は、人は本能的に動くことに快を得ると思う。」
河本氏
「職人、農業、林業などに従事している方は、スポーツ選手より創造的な体の動かし方をしている。スポーツというのは、そういう職人的な工夫の周辺にある。そういう身体を使った行動を継承しきれていないから、動くことが嫌になるのではないか。」
「植物はスポーツをするのか。例えば稲が育っていく。あれを集団で稲が行っているスポーツだと見られる視点がつけば。思って解釈するのではなく、それが見える力がつけたいと思っている。」
加藤
「ある大工さんの話。若い子を弟子に入れると、まず掃除と飯炊きをさせる。それをすることで、人がどうやったら喜ぶのか、ということを考える人間かどうかがわかる。それで伸びるかわかる。」
「新聞とスポーツ紙は違う。ニュースでも次はスポーツです、という。それは普通の生活の中から体を使うということが抜け落ちているということではないか。体を使うということが生きることから抜け落ちたことで、それをエンターテインメント化、ショー化しているのではないか。その結果、スポーツ選手がドーピングや練習の管理で、人間からスポーツ選手が遠ざかり、AI的になっているのではないかと感じている。」
「最後にまとめも兼ねて、お二人からお願いします。」
平尾氏
「型という問題とAI的になっているという話について。型を身に着けることは大事だと思っている。だが、それを身に着けるプロセスの中で、型にはめようとしても、どうしてもはまらない部分が出てくる。型無しと型破りの違いと言える。今のスポーツ界はどうしても型にこだわってしまう。身につけた型を破るそのプロセスにおいて、その人自身の創造性やオリジナリティが生まれていくのではと思う。」
「AI的なものはラグビー界でもどんどん入っている。例えばGPSで走った距離やスピードのデータなどもわかってしまう。だがトライをとる選手は実は走行距離が長くない。そんなに走ってない。それはトライを取れるタイミングを読み取る力、それをラグビーでは嗅覚と呼んでいる。GPSデータの中から、どうやって嗅覚を読み取るのか。デジタルメディアをどこまで使うのかということについて、どこかで線引きしなければ、みんな同じ戦い方をするようになり、スポーツが面白くなくなってしまう。全部予測がつくようになってしまう。」
河本氏
「より速く、という方向ばかりへ進んでいく中で、より遅くということをやってみてはどうか。体の動きを遅くすることによって、体の可能性を開いていく。できることをしないことの積極性や豊かさをもっと考えてもよいと思う。体は何かをしようとする。その手前に止まるということの経験の豊かさはあると思う。」