日本は世界有数の豊かで「幸せな」国と言えると思います。一時、政治や経済が悪くなっても、多くの人は日々、便利に快適に暮らしてきました。しかしそれは、政治や社会は私たちにとって『他人事』だという感覚を多くの日本人の間に植えつけました。そういう状態が長く続くと政治や社会の状況が悪くなります。残念ながら政治家の質も落ちてきます。そうならないようにするには、私たちは、政治や社会のことを、他人事ではなく自分事として考えなければなりません。私の経験を踏まえ、これから皆さんには「皆さんと政治」、そして皆さんがこれからを生き抜くためのヒントとして「自分の頭で考えること」「自分の体を使うこと」をお伝えしたいと思います。
この先、政治や経済が今まで通り安定しているとは限らないことを前提として考えましょう。
加藤秀樹(以下、加藤) 構想日本は、組織としてはNPOであり、内容としてはシンクタンクですが、日本では、まだほとんどありません。米国には公共的な政策提言だけをするシンクタンクがたくさんあります。そういう意味では、構想日本ぐらいだと勝手に思っています。構想日本で扱っていることは、例えば医療政策や地方のこと、財政などの政策を考え、その改革案を世間や政治家に訴え、よい方向に変えていくことです。ですから、構想日本の仕事をしていて、常に日本の政治はこれでいいのか、このままだとどうなるのかなど考えています。道を歩いていても、地下鉄に乗っていても、そういうことが頭をめぐっています。これは私に限らず、自分がやっていることについて一生懸命やっている人ならば、皆同じだと思います。
皆さんにお話をする上で、前提として考えておいて頂きたいのは、この先日本の政治や社会がこれまでのように安定しているとは限らないということです。良い学校に行って、良い会社に行けば、何かが保障されるかといえば、今まででもそうではなかったですし、これからは日本全体の政治や社会が不安定になり、平穏な人生というものがなかなか得難くなると思うのです。
その前提で、何が重要になってくるのでしょうか。3つのことをお話しします。1つは『皆さんと政治』について、あとの2つは皆さんに日々心がけてほしいことです。先に後の2つのことの結論をいいますと、『自分で考えること』そして、『自分の体を使うこと』です。
私たちの生活と社会や政治のことはワンセット、表と裏です。裏が悪くなれば表も悪くなる。だから、政治を放っておいちゃいけない。結局、自分たちが損をします。
最初に1つ目の政治のことについてお話しします。政治はお役人や政治家が向こうの方でやっていることではなく、皆さん自身のことです。他人事ではなくて自分事です。
アメリカやヨーロッパ、例えば、フランス人はすごく自己中心的だと私は思います。ところが、フランス人が何人か集まると政治や社会の話で盛り上がります。彼らは政治がおかしくなれば、自分たちが損をすると考えているためです。夏のバカンスはしっかり休みたい。そのためには、会社からクビにされたらこまる。だから政治にしっかりしてもらわないと困る。ましてや、戦争なんてされたら冗談じゃない。彼らはそう思うわけです。
「世の中を良くしていこう」とか、「政治はこうあるべきだ」とか、そういうインテリが言うような立派なことじゃなくて、「政治を放っておいて変なことになったら自分たちが困る。だから政治家をよく見張ってないといけない。」と彼らは考えるのです。
政治というのは、我々が普段、政治家や役人に委ねているけど、彼らが変なことをしたら自分たちが損をするということを歴史上、経験から庶民が知っている。自分のことと、世の中のこと、政治はワンセット、表と裏なのです。
日本が幸せな国であったために、いつのまにか、日本人は政治が『他人事』になってしまった。
対する日本人は、例えば統一地方選挙を見ると、昭和26年には投票率が90%を超えていました。しかし、それから70年、年間投票率はほぼ下がり続けています。今では、半分くらいになりました。関心がなくなっているのです。なぜなら、さっきの表と裏の話ではないですが、日本は幸せな国でした。世の中のことを考えなくても、自分たちはまあまあ暮らしてこられました。戦争もなくいい社会でしたので、放っておいてもよかったのです。それが50年も続くと、政治が他人事になるのです。
最初にお話ししましたが、今から政治も経済も難しい時代になるでしょう。過去50年のように上手くいく可能性は小さくなっていくのではないかと思います。なので、ここが踏ん張りどころだと思います。それは何も皆さんが政治家にならないといけないということではありません。政治というのは、うかうかしていたら自分が損をするという自覚をすることです。ぜひ、こういったことを覚えていただいて、そして、機会があるごとに実行していただきたいです。
この自分に返ってくるというのは、政治だけではなく何にでも言えます。自分と会社、自分と地域そして日本、さらには世界。環境問題もそうです。地球を相手に、「やさしくしよう」と考えなくてもいいのです。ただ、環境が悪くなると自分に返ってきます。あるいは、すぐに返ってこなくても自分の子ども達に返ってきます。『自分一人くらいやらなくてもいいかな』とみんなが思うと、環境は悪くなります。ですから、自分と全体、自分とみんなというのは、ワンセットであり、自分と世界もです。そのことを忘れると、自分は最後が損をします。
海外の大学には、当たり前のように考える環境がある。
次に、自分の頭で考えるということについて。私は、イギリスで勉強していたことがあります。オックスフォード大学やケンブリッジ大学など古い大学では、ほとんどが個人レッスンです。大きな黒板に書いて教えていくこともありますが、基本はお題だけ出されて、答えを教えてはくれません。例えば、『自己責任とは何か』というお題を出されます。「自分で責任を取ること」と答えたとします。そうすると今度は、「責任を取るとはどういうことか。それで責任を取れていると思うのか。」と、とにかく質問攻めで、「なぜ、なぜ」と教授に聞かれます。そして、次の個人レッスンまでに考えてこなければなりません。
そこで図書館に行き本を借りて勉強するのですが、授業では、どのような本を読んだのかというチェックが入ります。的を得た本でなかった場合、「ほお、良い本を読んでるじゃない」と皮肉を言われて終わることすらあります。教えてくれることは、楽なことです。自分で考えるということは、考えることをしたことのない人にとっては非常に困難なことです。
目の前に直面することの“そもそも”を考える訓練。それは頭を回して考える習慣につながります。
最近よくグローバリゼーション、グローバルな人材などと耳にします。一流大学を良い成績で卒業した人、あるいは英語が堪能な人がグローバルに通用するかというとそうはいきません。その差は、自分の頭で考えているか、考えていないかだと私は思います。イギリスの大学の話に戻りますが、答えを教えてくれなければ、自分で考えるしかありません。そして、質問攻めにされれば、どこまでも自分で考えざるをえないのです。
「いい学校に入るのは、いい会社に就職するため。いい会社に就職するのは、いい生活をするため。」では、「いい生活とは、どんな生活」「いい給料や肩書きを得るのはなんのため」と突き詰めていくとなかなか答えられません。最後まで突き詰めると、「人の幸せとは何か」「自分の人生をどうしたいか」まで行きつきます。これに答えはありません。しかし、このような答えのないことを議論し、考え続けることで、そもそも生きるとは何か、幸せとは何かという原点を考えます。経済の話も、技術進歩の話もそうです。こうやって目の前のことを考える訓練をすること、この習慣をつけていれば、どんなことにも頭はよく回るようになりますし、議論に非常に強くなります。
中身のある議論をするためには、自分の頭で考えること。
数日前、小川さんという大工さんの話を聞きました。高校を出て、自分が憧れる宮大工に何度も断られながらも弟子入りし、立派な宮大工になられた方です。その人は、英語を話せません。しかし、アメリカ、ヨーロッパ、中国に行っても「この人はすごい」と思って皆さん話を聞くと思います。英語は喋れた方がいいけども、その前に中身がないといくら英語が喋れても意味がないのです。
その人が日本語なら3分で話せる内容を、英語で30分かかってしまったとしても、外国のレベルの高い人は「この人は中身があるな」とわかると必ず聞いてくれます。逆に中身がなければ聞いてくれません。中身があるかないかは、自分で考えているか、考えていないかの積み重ねだと思います。
実は、日本中で考えずに分かったつもりになっている状況がたびたびあります。例えば、体罰について。体罰はいいのか、悪いのかという議論があります。
加藤 体罰はダメだと思う人手を挙げてください。(会場挙手)
次に体罰は必要だという人手を挙げてください。(会場挙手)
どちらかというとダメだという人多いですね。手を挙げなかった人も多いですね。では、どちらにも手を挙げなかった人で言いたいことがある人は、手を挙げてください。
参加者 「体罰はいいとか、悪いとかの二つで固定して考えるものではありません。体罰になる前段階を見なければ判断できないです。」
加藤 まさにそうなのです。「体罰」というものはないのです。殴るとか軽くたたくいうことはありますが、体罰というのは、言葉があるだけで体罰という具体的な行為はないのです。だから、体罰を考える時には、どういう状況で何をしたのか、人間関係はどうだったのかまで調べてどこに問題があるのか議論しないといけないのです。しかし、日本中が「体罰とはそもそも何か」を考えずに、「体罰」という言葉の善悪だけを議論しています。
保育園の待機児童の問題があります。最近、保育園に落ちたのを理由に日本を批判する発言がネット上でありました。誰が言ったかもわからないその発言で、国会で待機児童をゼロにすべきという議論になりました。待機児童に関する状況は地域によって千差万別です。保育園に申込みする人に関しても色々な違いがあります。しかし、そういったことを整理せず、「待機児童」を失くそうという流れになっています。あの発言で大した議論もなく、日本の政治、政策が変わるというのは驚くべき国だと私の外国の友人が言っていましたし、私もそう思います。だから本当に、中身を考えないといけません。
概念だけでわかっているつもりでは、議論になりません。
「自分の頭で考える」コツを一つだけ言います。言葉の意味を考えるようにしてください。さっきの話でいうと「体罰」とは何かを考えることです。「体罰」の意味を考えると、いろんな事を考えざるをえなくなります。こうやって言葉を聞いただけでわかったつもりにならないことが大事です。言葉の中身を自分で具体的に考えることが、私は物事を考える時の一つのヒントだと思っています。
アメリカ人との議論をしているとよく「フェア」という言葉を使います。多くの日本人はアメリカ人から、「それはフェアではない。」と言われると引き下がってしまう傾向があります。しかしそこで、「お前のいうフェアとはなんだ。具体例を挙げてみろ。」と言うべきだと思うのです。フェアあるいは、公平というのは単に概念です。概念というのは色んな具体的なことをまとめた言葉であり、とても便利です。ところが、概念だけで分かったつもりになっても、人によって、その中身が大いに違ってるかもしれません。「効率が悪い」「フェアでない」と言われると、多くの日本人は、すみませんと言ってしまいます。しかし、そこでひるまず、その言葉の意味を具体的に聞くのです。そうすると、相手が自分の勝手な考えを言っているだけかもしれないのです。そういうやり取りに慣れることが、グローバルに通用する人を育てていくのです。
体を動かし、記憶することを繰り返すことで、考える地頭をつくります。
3つ目は、体を使うということです。フェアとか公平というものの具体例を挙げようと思ったら自分でやってみないとわかりません。物を考えてみようと思っても、自分が体を使って行ったことでないとわかりません。学校で授業を聞いているだけでは、わかったつもりでも、わかってないのです。
先ほど紹介した小川さんという大工さんは毎年、弟子をとっています。長い人で10年ほど弟子をして、独り立ちしていきます。最初の一年、弟子には道具をまったく使わせない、手を触れさせません。何をさせるかというと、共同生活の中で飯炊きと掃除をさせるそうです。段取りがいいか、悪いかや、人に対する思いやりなどが、料理と掃除をさせるとわかります。具体例でいうと、過去におかずにこんにゃく一切れしか出さなかった弟子がいたそうです。それを見ると、その人にはみんなに対する思いやりがありませんし、考えていないことがわかります。「思いやり」という言葉はわかりますが、実際に分かったと言っても、こんにゃく一切れ出すだけでは、結果的に他の人のことを思いやってないわけです。こういったことは、みんなのことを考えて自分でやってみて、失敗して、初めてわかります。「体を使って、考える」この繰り返しが、私は大事なことだと思います。
記憶には、受験勉強に多い「頭で覚えるもの」と、スポーツでいう「体で覚えるもの」があります。体で覚えた方が忘れません。同じように考えることにも、文章を読んで頭で理解するのと、体でやりながら考えていくのでは、脳を調べると明らかに違いがあるとのことです。
『言葉、概念と具体的なこと』『自分の体を使い、考える』。これらのフィードバックの繰り返しによって、物事を考える、頭が回るということが自動的にできるようになるのだと私は思います。
最近は、メールでやりとりすることが増えました。電話よりもメールでやりとりすることの方が記録に残るなど良い面もあります。しかし電話はリアルタイムのやり取りになり、相手の質問に対して、その場で考えなければなりません。メールだとその場では考えません。面と向かって話すときは、その時の顔色、目つき、仕草がすべて入ってくるため、もっと考える要素が増えます。
さらに言うと、会社の営業であれば、暑い時に、大汗をかきながら営業に行ったとします。その時の、歩いて、汗をかいて、営業先で汗を拭きながら話をして、という一つ一つが体に記憶として残っています。体育会的に「とにかく汗をかけ」というのではなく、科学的にも「体を使って、考える」というのは、すべて自分の中に残ります。
なのでぜひ、体を使ってください。
知識の量ではなく、知識をどれだけ応用して使うことができるのかが重要です。そのためには、知識を使って考えることのトレーニングが大切になります。
質問者A 人と接することは、自分の成長にも繋がり、輪を広げていくことも大切だと思います。実際に、加藤さんが輪を広げるためにしていることはありますか。
加藤 最近、よくネットワークという言葉が聞かれます。人のネットワークなど。しかし、私はネットワークなんてものはないと思います。例えば、パーティーに行き、大勢の人がいて、名刺交換をします。でも、名刺が何百枚集まろうが、それは単なる名刺です。私にとっての人の輪、ネットワークというものは、自分より前にはありません。自分の後ろにできたもの、結果です。一人で何かできない時に、誰かに何かを頼んだり、教えてもらったりします。逆に教えたり、また頼まれたりしていく中で、後ろを見たら、人の輪ができているんです。
ですから、ネットワークは作ろうとして、作れるものではないと思います。「毎日毎日一生懸命に何かをして、失敗することもある。その結果としてできたもの」というのが私の実感です。目の前にある物をどうしっかりとやるのか。できないことは人の力も借りる。仕事にしっかり取り組めば濃くて、厚いつながりがいつの間にか自分が生きてきた後ろにできています。それも自分の体を使わないと身のあるものはできません。
質問者B お話の中で、一流大学の出身者でも考える力がないと言っていましたが、考える知識は膨大に持っているのに、なぜ考えないようになったのですか。
加藤 やはり教育の仕方が大きいと思います。日本の学校ではたくさん教えるけどあんまり質問しません。皆さん、第一次世界大戦はなぜ始まったか。わかる人、手を挙げてください。
参加者 オーストリア皇太子をセルビア青年が殺害したからです。
加藤 それは、日本では正解です。しかし、私が聞いた例では、イギリスの小学校では、答えを教えてくれません。セルビア青年が皇太子を殺したのは、一つのエピソードに過ぎません。その前に色々な出来事がありました。あの事件は、国と国との関係、宗教、経済、民族、様々な要因の中で起こりました。その様々な条件を教える。そして、その状況下でどうやって戦争に進んでいったのかを考えさせるのです。日本の教え方だと応用がききません。必ず皇太子が撃たれたら戦争になるわけではありませんから。しかしイギリスの教え方なら今の時代でも、100年前でも100年後でも応用がききます。国や民族の関係がどういう状況になれば、戦争が起きるかということがわかるわけです。
皆さん、いずれ大学受験をするでしょう。例えば、東大でも慶應でもすごく頭が良かったり、知識が豊富な人は多い。しかし、100の知識があってもそれを1通りしか使えなかったら100×1で100通りです。知識が50でも、それぞれ10通りに使えるなら50×10で500通りの答えができます。知識の量もさることながら、どれだけ考えられて頭を回せるのか、知識を使えるのかが重要です。
質問者B 今の日本の教育の仕方だと考える力がつきづらいと思うのですが、そんな中で考える力をつけるにはどうすればいいでしょうか。
加藤 考えるというトレーニングをしていなければ、考えるとは、何をすればいいかということもわかりません。私は言葉の中身を考えるというのが、考えることの第一歩だと思っています。誰かが話した言葉に納得せず、言葉の中身を考えることがヒントです。言葉だけ、単語だけ聞いて分かったつもりにならないことです。
質問者B 考える力をつけるという意味では、単語を一方的に教えられる今の教育の中でも、その一つ一つを自分で分析して、考える力をつけていくしかないということですか。
加藤 先ほども話したようにまずは、言葉の意味を具体的に挙げてみるということ、言葉の定義を相手にただすことからがスタートだと私は思います。話をした内容に戻りますが、体を使って何かをしないと具体的な例は挙げられません。具体的なことをひっくるめたものが言葉なのです。具体的なこと抜きで言葉をわかったつもりでいる限り、友達同士でも親子でも、本当には理解し合えないと思います。
皆さんの幸せだなと思ったこと、思っていることはなんですか。
「幸せは何か」というアンケートを今までたくさんとってきました。その中には、政治家、企業の社長、小学生もいます。ところが、どんな人も答えは大して違わないのです。「仕事が上手くいった時」「スポーツの試合に勝った時」「家族で食事をした時」「温泉に行った時」「子どもの笑顔を見た時」など。
先ほどの質問で、何かを残したいという方がいました。残すものには、いろいろあります。お金もあると思いますし、憲法を変えたとか、会社をつくった、それは素晴らしいことです。しかし、このアンケートを見ると多くの人にとって、幸せだなと思うことは、実はそれほど大したことではないらしいのです。日常的な幸せ、それらの積み重ねが重要ではないかと思います。
前回、よかったと言われた話がありました。高橋書店という手帳で有名な書店が、毎年、民間のいいことわざや言葉を募集しているのですが、その中のひとつを紹介したのです。それは『茶碗を割る人は洗う人だ』というものです。たしか、ある人が自分のおばあちゃんが言ってたということで応募した言葉だったと思います。家で手伝いをしていて、茶碗を割れば怒られます。しかし、そもそも茶碗を洗わない人は割りもしません。こういう話はとても大切です。
前回、この話が評判がよかったので、今日も最後に同じ高橋書店の言葉からもう一つだけ紹介します。それは、『誰かとは、自分のこと』というものです。
今はどのようにしているかわかりませんが、昔は学校の床に雑巾がけをしていました。雑巾を洗うバケツの水はすぐに真っ黒になります。汚い水で雑巾をすすぐのはみんないやです。しかしみんな、自分が水を替えに行きたくはない。誰かやってくれないかなと思っている。そしたら先生が黒板に、この言葉を書いたそうです。この言葉を高橋書店に投稿した人は六十代の女性だったようです。生涯ずっとこの言葉が頭に残っていたそうです。いやなことが目の前にあると常に「誰かとは、自分のこと」。介護は大変です。みんな誰かやってくれないかなと思います。しかし、先生のこの一言のおかげで、この女性は自分の親の面倒を心からみることができ、看取れたことが本当によかったと言ってたそうです。
すべてにつながることだと思います。みなさんも是非、覚えていてください。
ありがとうございました。